大隈重信にとっての人生の転機と言われる一番の時期があるとしたら、50歳前半の苦い経験にあるのではないだろう?

それは、1889年に黒田清隆首相の元、外務大臣をしているとき、先進国との条約改正を無理やり断行しようとして、来島恒喜に爆弾を投げられて、片足を切断せざる得なくなってしまった出来事。
そして、翌年に国会が初めて開設されたものの、大隈重信の立憲改進党が惨敗してしまった出来事。

。。。にあるのではないでしょうか?

このとき、彼は今までのような傲慢な態度で政治に臨む時代ではなくなってしまったことに気付き、国民に慕われるような社交的な政治家にならないといけないと誓いました。

そして、50歳代半ばから国民に語り掛ける講演や演説の数が(ほんのわずかな数から)徐々に増えていき、70歳の人生で一番国民に語り掛け、国民に慕われた絶頂の時期となります。

それでは本記事では、大隈重信の生涯を主軸に、「自由民権運動」などのテーマを織り交ぜて語っていきたいと思います。

目次
【1.近代化に積極的だった「佐賀藩」と「大隈重信」】
【2.「自由民権運動」と大隈重信】
【3・50歳前半の大隈重信の転機となった出来事】
【4・国民に語り掛ける「大隈重信」】

【1.近代化に積極的だった「佐賀藩」と「大隈重信」】

大隈重信は、1838年に佐賀藩の上士の家柄に生まれました。
彼と同世代には1836年生まれの坂本竜馬がおります。坂本竜馬は身分制度に悩まされているように、この世代は幼少期には江戸時代の身分制度に影響がまだ及んでいた時代とも言えます。
しかし、大隈は上士であったため、待遇としてはそんな悪いものではなかったのではないでしょうか?

さて、16歳(1854年)のとき、佐賀藩の特色である『葉隠』に基づく儒教教育に反発し、藩校改革を訴え、退学されています。この事件は、儒教教育を行いながらも、外国船が往来してきて近代的な兵器などの導入や蘭学にも力を入れだしてきた当時の佐賀藩の風潮と無関係ではないと思います。

佐賀藩主・鍋島真正
佐賀藩は、大隈重信が生まれる少し前、1830年に17歳で鍋島真正(1815~1871)が藩主を継いでいます。
彼が継いだ時、①1808年の出島で在留していたオランダ人達がナポレオン戦争のため本国と貿易ができなくなってしまい代わりにアメリカと秘密裏に貿易していた時にイギリス船が出島に攻めてきた「フェートン号事件」の対応の協力や、②1828年出島の領事館の医師としても有名だったシーボルトが日本を旅立とうとして起こった際大規模な台風が起こり旅立てなかったことと日本の秘密の地図などを持ち帰ろうとしたことが発覚してしまった「シーボルト事件で有名な台風」の影響により、財政が破綻していました。
そのため、1835年の佐賀城での火事を皮切りに、大幅な財政の削減政策を実施しました。
また、それをきっかえに藩での政治力が強まった鍋島は、儒教など武家社会での教育中心だった中、長崎の外国人からの警護のための兵器の西洋技術の導入など西洋の知識を取り入れる政策をとるようになります。
有名なのは1839年に今まで治すことが難しい(あるいはリスクの伴う)天然痘の治療として、「牛の種痘」の接種を長男の直大で試し検証し、導入しています。この種痘は、その後大阪の緒方洪庵などに分け与えられ、日本の安全な種痘の普及の先駆けとなります。
また、製鉄所の建設や西洋の大砲の技術を積極的に取り入れていた(長崎海軍伝習所にも積極的に実習生を送っている)ために、1853年のペリー来航後、品川に防衛のため台場を建設する際技術提供を行っています。

このように大隈重信が藩校で儒教教育を受けていた時期に、佐賀藩には西洋技術など蘭学を取り入れ、教育の在り方を問い直す風潮があり、大隈はその流れを16歳ながらいち早く影響されて運動を起こしたのだと思います。

義祭同盟という国学者である神陽が尊王論を広める私塾的な性格のグループに参加し、副島種臣や江藤新平らと親交を持っています。

致遠館
その後、1867年薩長同盟が行われ、明治維新の前年、大隈重信は佐賀藩に長崎の(出島の北側辺り)藩校「致遠館」に積極的に(副島種臣などと)関り、外国人宣教師を招き英語を学んでいます。
その際、新約聖書やアメリカ独立宣言などを学び、驚いているようです。

更に、尊皇派として徳川慶喜に大政奉還の説得に行くために脱藩を試みるが、見つかり捕縛されて、明治維新を迎えます。

【2.「自由民権運動」と大隈重信】

その後、明治政府に仕え、アヘン戦争を経験し日本に英国公使として着任したパークスとの交渉や、1872年新橋~横浜間の鉄道を陸地での土地の買収が難しく海上に堤防を作り開通させることや、全国の貨幣を統一して「円」を制定させたり、太陽暦を導入したり、政府の中核として働いて、実績を残していきます。

しかし、1881年大隈重信は政府を去ることになります。

明治14年の政変
北方からのロシアの侵略に対抗するため、北海道開拓使長官・黒田清隆(1840年生まれ)は、10年計画で北海道の開拓使を建議します。そして9年目の1881年に、間もなく政府主導で運営されていた開拓関係の事業を払い下げることを決定します。
開拓事業は赤字も多かったため破格の値段で、同郷の五代友厚に払いだ下げられる話し合いが秘密裏にされていました。
それが1881年の7月新聞にすっぱ抜かれ、世間に癒着関係として非難の的となってしまいます。

その秘密を外部に漏らしたとして、大隈重信が疑われたです。

大隈重信は前の大蔵卿であり、官有物払い下げ規則を作っており、今回の払い下げを批判していました。また、この払い下げ事件の前年に三菱の岩崎弥太郎が払い下げを申請しつつも却下されており、岩崎と親しかった大隈重信が仕組んだと考えられたのです。

これだけなら大隈の追放はなかったのかもしれませんが、世間の非難があまりにも膨大になってしまい、伊藤博文ら政府は大変てこづっていたのです。

そこで、収拾案として、①大隈の追放、②国会開設の詔勅(1890年に向けて国会を開設する)、③払い下げ中止の3点を決めます。

②の「国会開設」は当時の時代背景を物語っております。
1872年に征韓論を気に西郷隆盛・板垣退助・江藤新平などが政府を去り、1877年の西南戦争を気に武力から言論で政府に対抗する自由民権運動が展開されます。
そして、この払い下げ事件の前年板垣退助を中心に「国会期成同盟」を結び、「条約改正」と「国会開設」の2点を中心に政府に要求していた自由民権運動を「国会開設」の一方のみに絞って要求する運動がなされていました。
そのため、今回の件の批判の主流であった自由民権運動の勢力の要求を満たすために「1890年の国会開設」を決めたです。

しかし、この「国会開設」は一見自由民権運動勢力の要求を満たした形でしたが、1890年の開設とすることで、今まで「国会開設」という一つの目標で一丸となってた勢力の目標を見失わせることも、伊藤博文らは考えていました。

二大政党の登場
こうして、1890年に「国会開設」が決まったため、「国会開設」の準備のため、政党が作られます。それが板垣退助を中心とする「自由党」と、政府を去ることになった大隈重信を中心とする「立憲改進党」でした。

また、大隈重信は「国会開設」に向けて、人材育成のため早稲田大学の前身ともなる「東京専門学校」を設立しています。

【3・50歳前半の大隈重信の転機となった出来事】

「板垣死すとも、自由は死せず」

この言葉で有名な愛知での演説で、刺された板垣退助の事件は1883年に起こっています。この事件によって自由民権運動は絶頂を迎えるのですが、その後すぐに盛り下がってしまいます。

その原因として、過激派と貧困農民の結託による「激化事件」(過激な手段によって事を成し遂げようとする事件)が関係します。

自由民権運動の多くは演説など言論によって政府に圧力をかけていましたが、一部の過激な人たちはテロによって事を成し遂げようとしていました。
また、大蔵卿の松方正義が西南戦争で紙幣を乱発してしまいインフレが起こっていたのを抑えるため、デフレ政策をとった結果、農民が大打撃を受けて、一部の農民は生活ができず早急な変革を望む状況がありました。しかし、自由民権運動の主流となる勢力は1890年の国会開設に向けての準備政党ともなっていため、彼ら貧困農民の切羽詰まった状況にこたえられない状況にありました。そこで切羽詰まった貧困農民はテロによって早急に事を成し遂げようとする過激派を頼るようになったのです。

1882年「福島事件」などは、準備をして用意周到になされた政府に対する一揆でしたが、1884年の「加波山事件」や「秩父事件」などは、到底政府を転覆するほどの準備がなされておらず、行動が先行して行き詰まりを見せてきます。

また、主流の板垣退助の勢力も、内部崩壊していきます。
板垣退助が後藤象二郎の勧めから、板垣がモデルとしているフランスの政治の勉強に留学することを決めるのですが、資金の出どころが不明でした。そのことを、大隈重信を始めとする立憲改進党系の新聞が「三井から資金が出ていると」すっぱ抜きます。すると、自由党側も対抗のため、「大隈と岩崎弥太郎は癒着している」という記事を書き批判しかえします。こうして自由民権運動の主力の2大政党も板垣退助の留学問題から対立を起こし、互いに混乱を起こし、勢力を弱めていってしまったのです。

このような状況下に起こったのが、1885年の「大阪事件」でした。

大井憲三郎と中心とする自由党系過激派グループは、1884年に朝鮮の近代化と独立を勧めようとしてクーデターを起こし失敗した金玉均の後に続き、武力を持って朝鮮の独立運動を促す計画を立てていました。
それが政府に漏れてしまい、大規模な検挙が行われたのです。

こうして、自由民権運動勢力が弱まった政府は、欧化政策による条約改正を進めることになったのです。この政策の典型が「鹿鳴館外交」になります。

しかし、この欧化政策も国民の批判によって、修正が求められるようになってきます。

1886年にはノルマントン号事件が起こり、不平等条約の是正の必要性が実感されます。また1887年の井上馨外相による「不平等条約改正」政策に、大きな批判が行われます。問題点となったのが「外国人裁判員を置く」ことで、フランス人の法律専門家ボアソナードや勝海舟なども批判を行われ、大規模な自由民権派の巻き返しが行われます(しかし、政府は混乱をおそれ「保安条例」を出して多くの自由民権派の人々を東京から追放した)。

そんな空気が満ち溢れた1889年、大隈重信はテロを受けるのです。

1885年から初代総理大臣として就任した伊藤博文は、「保安条例」後、黒田清隆に総理大臣の地位を譲り、今回起こった自由民権運動の巻き返しの対策として自由民権運動側だった大隈重信を外務大臣として政府に迎えることにしました。

そこで大隈重信は、井上馨が行おうとした「条約改正案」を少し変更したカタチで実現しようとしました。
今回も井上馨同様反対運動が予想されたのですが、大隈が自由民権運動派からの出であったため少し流れは変わりました。
前回は政府に批判していた「立憲改進党」系新聞は、大隈重信の取り組みを好意的に評価したのです(大隈重信が中心を担っていたグループでもあったで)。
こうして自由民権運動派の反対運動のベクトルを分散したのです。

その分散の状況から、まだ国会開設前のため、強硬に首相と外務大臣が政策を勧めれば、実現できると踏んで、大隈重信は力づくで実現を試みました。
多くの人がさまざまな手段を使って大隈重信を止めようとしたのですが、決定打となったのは来島恒喜がテロによって爆弾を大隈に投げつけたことでした。

これによって、大隈重信は、片足の骨が複雑骨折を起こし、切断することになります。更に、今回の事件を重くみて、黒田清隆内閣は解散して、大隈の目論は実現できずに終わるのです。

更に、翌年の念願の国会開設では、大隈重信が率いる「立憲改進党」は惨敗するのです。

ここに至って、大隈重信は今までの頭のいい自分主導で、強硬に従わすやり方ではもはやいけないと気付いて、変ろうとするのです。

【4・国民に語り掛ける「大隈重信」】

まず、大隈重信はテロを起こして自死した来島恒喜を非常に丁寧に扱います。
また、今まで政策を実現するときなど、ほとんど説明や講演などをしなかったのを、丁寧に説明し、積極的に講演や演説をする機会を持つようにするのです。

こうして70歳付近(1908年前後)には非常に社交的で国民に語り掛ける政治家となるのです。また人生125歳説を唱え、非常に精力的に社交活動を大隈は送っていくのです。

1905年には東京陸軍中央幼年学校に入学したばかりの学生・石原莞爾の突然の訪問も受けています。また、1907年には東京専門学校(早稲田大学の前身)卒業生の南方常楠(南方熊楠の弟)の酒造店のお酒の名前の命名も行うなど、非常に多彩な社交も行っています。

※大隈重信については Eテレ『大隈重信 自分は変えられる』2017.12.12放送
自由民権運動については『大東亜論 巨傑誕生篇』小林よしのり 2014.1.13 小学館 を参考にしたりしています。

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